本郷で思ったこと
久しぶりに本郷に行った。一ヶ月くらい行ってなかったような。
そこで思ったこと。
1、人に伝わらないような告知は全く意味がない。
教職の介護実習の告知が8月末に掲示板に出され、9月頭に受付終了していた。
あのね。
そんな時期に学校行くわけねえだろ。
学生に知らせるための告知なのか。
自分たちの責任を形式上果たすための告知なのか。
意図のない仕事には何の意味もない。
2、ただあることを、「無」に帰すか、「神」に帰すか
図書館前の噴水のところを歩いていたら、韓国人のキリスト者から聖書勉強会へのお誘いを受ける。
今期二度目。
話しかけやすいムードが出てるのかと考えると少し微妙な気持ちにもなる。
信教者と宗教の話になると、
「理性を超えたものの存在をあなたはどう思うのか」
というようなところに行き着く。
彼らは理性を超えたものが存在する理由(必然性)を「神の存在」に帰す。
しかしながら、理性を超えたものの存在に理由なんて必要なのか。
全てのことに理由がある。真理がある。
そんな形而上学の中でしか通用しない考え方に同調するのは、今の俺にはなかなか厳しい。
Cedar Breaks(写真)を見た時、「ただ在る」ということの本質を見たような気がした。
長い年月をかけて作られた風景。
今この時代だからこそ見られる風景。
そしてなぜか今そこにいる自分。
全ては「ただ在る」だけであって、それぞれがそこにいることに理由はないと思った。
存在そのものは、限りなく「無」に近い。そう思った。
今こうして日記を書いた私がいて、
この日記を読んでくれているあなたがいる。
それはなぜか。
なぜこの世界、この時代に、あなたと私がこんな関係を持つことになっているのか。
そこには理由がないように思えてならない。
「無」の存在と向き合ったことで逆に
「ただ在る」ことのすごさを感じた。
大学二年の夏のことだった。
自分の考えがまだもやもやした状態であること。
二年前の夏に素晴らしい場所に行っていたこと。
その二つを思い返すきっかけを与えてくれたのだから、声をかけられたことも良しとしよう。
俺に声をかけたことに、理由があったかは知らんが。