本郷で思ったこと

sanui08222005-09-28

久しぶりに本郷に行った。一ヶ月くらい行ってなかったような。
そこで思ったこと。


1、人に伝わらないような告知は全く意味がない。


教職の介護実習の告知が8月末に掲示板に出され、9月頭に受付終了していた。


あのね。


そんな時期に学校行くわけねえだろ。


学生に知らせるための告知なのか。
自分たちの責任を形式上果たすための告知なのか。


意図のない仕事には何の意味もない。



2、ただあることを、「無」に帰すか、「神」に帰すか


図書館前の噴水のところを歩いていたら、韓国人のキリスト者から聖書勉強会へのお誘いを受ける。
今期二度目。
話しかけやすいムードが出てるのかと考えると少し微妙な気持ちにもなる。


信教者と宗教の話になると、
「理性を超えたものの存在をあなたはどう思うのか」
というようなところに行き着く。
彼らは理性を超えたものが存在する理由(必然性)を「神の存在」に帰す。


しかしながら、理性を超えたものの存在に理由なんて必要なのか。
全てのことに理由がある。真理がある。
そんな形而上学の中でしか通用しない考え方に同調するのは、今の俺にはなかなか厳しい。


Cedar Breaks(写真)を見た時、「ただ在る」ということの本質を見たような気がした。
長い年月をかけて作られた風景。
今この時代だからこそ見られる風景。
そしてなぜか今そこにいる自分。
全ては「ただ在る」だけであって、それぞれがそこにいることに理由はないと思った。
存在そのものは、限りなく「無」に近い。そう思った。


今こうして日記を書いた私がいて、
この日記を読んでくれているあなたがいる。


それはなぜか。
なぜこの世界、この時代に、あなたと私がこんな関係を持つことになっているのか。
そこには理由がないように思えてならない。


「無」の存在と向き合ったことで逆に
「ただ在る」ことのすごさを感じた。
大学二年の夏のことだった。


自分の考えがまだもやもやした状態であること。
二年前の夏に素晴らしい場所に行っていたこと。
その二つを思い返すきっかけを与えてくれたのだから、声をかけられたことも良しとしよう。
俺に声をかけたことに、理由があったかは知らんが。